そしてしばらくして長老は顔をしかめて言った。それを確認して視線を下げた。
「白空か?」
「……名は知りません。ただ、九尾の狐に父が襲われ、殺されました。恐らくこの里の近
くで」
「その狐は、我が天狐族の恥。貴方にまで危害を」
 頷くと溜め息をついた。なぜか胡桃色の髪を靡かせた赤い着物の少女を思い出した。そ
の腰には四本の尻尾があった。
「天狐は恨んでませんよ。白空に襲われたとき、助けてくれた」
「すまなかった」
 そう一言つげ長老は頭を下げた。いえと首を横に振ってそっと目を伏せた。
「……天狐の一族は、同族または人を殺めてはならない。そんな禁がある」
 猪突に話したのはそれだった。月夜はそれを何も言わずに聞いていた。
「……白空はそれを犯した。だから、九尾に堕落した」
 何を言いたいのか諮れなくなった月夜は目に疑問の色を浮かべていた。それを気にせず
に長老は話し続ける。
「こちらともそれを罰さなければならなかった。だから、妹である蒼華にそれを命じた。
彼女は、人との合いの子だ。天狐の禁では縛れない。それを、我々は利用した」
 月夜はくっと拳に力を入れた。それが夕香を孤独に貶めた出来事だ。夢で見たから分か
る。蒼華は夕香の天狐としての名であることも、敵である白空と異父兄妹だということを。
「それが、彼女を追い詰めていた事は我々も重々承知していた。だが、我々では何も出来
なかった。せめてできるのは白空のように道を外さないようにしてやること。白空もそう
してやればよかった。だが、それが出来ずに時はすぎ、このような結果になってしまった」
 夕香は今、外にいるなと判断して唇を噛み締めた。夕香がいなくてよかった。こんなこ
と言って夕香が黙っているはずない。
「彼女が、知人を自分の手で殺めたらどうなるか分かるだろう?」
「はい」
 静かに頷いて、ここまで来てやっとなにが言いたいか分かった。夕香の代わりに白空を
討ってくれということらしい。
「だから、多少の事は目を瞑る。彼を討ってくれんか?」
 その言葉に返事をするのは少し時間がかかった。今は、白空に敵うか分からない。だが、
初対面にもかかわらずそんなことを頼む長老がおかしいとふと思った。
「父の敵ですから、彼は討ちます。ですが、初対面である俺に何故そのような」
 長老はそれを聞いてふっと微笑んだ。
「蒼華がここに知り合いを連れてくるのが初めてだったのでな。蒼華は君の事を気に入っ
ているようだ。それに、君は信用できる。私の勘は外れないものだ。この千数年間はずし
たことはない」
 月夜は目を見開いた。初めて、言われた。そんなこと。
 「そうですか。そろそろ、俺も」
「次来た時は一杯やらんか?」
 右手で何かを持ちくいくいと傾けるその仕草に月夜はぜひと答えて深く一礼して小屋を
出て行った。夕香が子狐たちと遊んでいた。それを何も言わずに目を細めて見つめていた。
「あ、話し終わってたの?」
それなら早く言ってくれればいいのにとむくれる夕香を見て月夜はふっと微笑んだ。
「楽しそうに遊んでたじゃないかよ。声掛け辛いんだよ」
 いつもなら別にで済ます言葉に長く続けてみる。その言葉に夕香は驚いたような顔をし
ていたがむくれた顔なってうめいた。
 それを見て、月夜は胸の中に暖かいものがあふれるのを感じた。穏やかで温かいもの。
気持ちとして形容できないそれは感覚的にその存在を訴えてきた。
「まあ、行くんでしょ?」
「ああ。いつまでもここにいられるわけ無いしな」
 そうね、と頷いた夕香はふっと笑った。穏やかな気持ちに包まれて天狐の里を後にし、
人界に戻った。
「帰ったか、日向」
 人界に降り立った瞬間に教官の声が聞こえた。二人で同時に振り返ると丁度そこには教
官が立っていた。
「はい。もう少し休養は必要ですが、大分瘴気の毒が抜けたので。連絡もなくすいません」
 月夜がスラスラというと夕香の頭を押し下げて自分も頭を下げた。
「分かっている。日向。これを」
「はい」
 預けていた物を返されそれを身につけると一礼して二人はさっさとそこから脱出した。
「何よ」
「一歩遅かったら教官の股の下だ」
 その言葉に凍りついた。意味が分かったのだ。もし、あのタイトなスカートの真下から
自分達が出てきたら何をされるかわからない。妙な所で危険察知が出来る月夜に心から感
謝をしたのは言うまでもない。
「少し、危なかったらさっさと逃げただけだ。悪いか」
 憮然として答えると夕香を部屋に送り、自室に戻った。そのとき、つけてきていたよう
に入った途端、ノックの音が聞こえた。
「……狼か?」
 扉越しに訊ねる。肯定したのをきいて扉を蹴破りたくなったが教官にどやされるなと思
いあけた。
「何用だ?」
「いや、帰ってきたのかって。……インフェクション、あったのか?」
 その言葉に驚いた。月夜が最初に精神的感染した人物であり最も親しかった幼馴染に驚
いた目を見せる。
「なんとなく分かる。……都軌也」
 その言い方に月夜はそっぽを向いた。やや視線を下げ気味でなぜか怒ったような声で呟
いた。
「その言い方止めろよ。俺は」
「都軌也だ。月夜ではない。そうだろ?」
「それはそうだが」
 彼にしては珍しい何か悩んでいるような顔だった。その顔を見て嵐は深く息をついた。
「いい加減抱え込むのも止めろ。どんな能力が宿ったかは知らないがお前ら二人を強く結
びつける力だろう? ならば抱え込まずにあいつに話せばいいだろう。俺でもいいけどよ」
 都軌也。それは過去に捨てた名の筈だった。まだ、それに反応すると言う事は何かが疼
いていると言う事だ。
 辛いから、父と母がつけた名を忘れようとした都軌也は、月夜という別の人格を作った。
冷静で、何もなんとも感じない無感動な人格を。そうではなければ、耐えることが出来な
かった。母に捨てられ、父を目の前で惨殺され権力の為に使われていた幼い都軌也の心は。
「……上がれ」
 やがて、小さな声で月夜は言った。嵐は目を見開いたが遠慮なくあがった。きちんと整
理整頓が行き届いたシンプルな部屋には必要最低限の家具しかない。

六畳のなかにリビング、ダイニング、キッチンが入り同じく六畳の寝室があり、シャワー
室がついている寄宿寮にここまで整理の行き届いた部屋はあるだろうかとふと疑問に思っ
た。
「で、なんだ?」
「トレースだ。俺と夕香の中にあるのは」
 やや視線を下げて握った拳を見ている。拳を作るのは何か言いたい事があるがそれをこ
らえている時。視線を下げるのは本当のことをいっているときだ。嘘をついているときは
左横を見ていたり顔を真っ直ぐ上げて顔を見ていないときだ。
「恐らく、心で思っていることが無条件に相手に伝わる。移し変えのような感じだ」
「だから、トレース?」
 頷くと、溜め息をついた。
「……俺の仇が、あいつの兄だった。あいつも、また兄を倒せと同族に言われ、孤独を味
わった。兄に捨てられたも同然の出来事だったから」
 夢で見た内容をとつとつとしゃべる月夜に嵐は一つ一つ頷いていた。いつ以来だろう。
こんなに長く彼と話したのは。インフェクションされてからどことなく避けられているよ
うな気がしたからそれに乗っ取って険悪な関係にしてきた。だが、裏を返せば親友だった
りもするのだ。
「どうすればいい?」
 夕香の兄を殺せば父親を殺した白空と同じくなる。夕香は兄を慕っていた。いくら裏切
ったとしてもその思いは変わらないだろう。都軌也も然り。父を慕っていたが故に、殺し
た白空を憎んだ。もし、その慕っている兄を月夜が殺せば、夕香は、月夜を憎むだろう。
彼はそれが辛いのだ。恐らく、何故、そう思っているかもわからずに。
「どうすればいい?」
 血を吐くようなその問いに嵐はきわめて冷静に一言告げた。
「今のお前に白空を倒せるのか?」
 その言葉に月夜は黙った。彼らしくもなく、現実を見ていなかった。
「それが現実問題だろ? 未来の事は憂うな。今を見て、白空の実力とお前の実力。どう
見たって白空のほうがうえだろ? とりあえず同じくらいになってからそれを悩め。それ
しかないだろ」
 やや置いて、目を伏せたまま月夜はそうだなと頷いた。その声も沈んだもので犬が耳を
伏せて鼻を鳴らしているのが見えるようだった。
「そんなものよりも、今はやんなきゃなんねえこともあるだろうに。しばらくは忘れろよ。
どつぼにはまるのがお前の特技だからな」
「特技言うな」
 要は悩みすぎだ。夕香を見習えと言うと月夜の頭を一つ叩いた。されるままの月夜は拳
を握りながらうなずいた。
 


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